プロフィール
1955年2月生まれ。都立工芸高校卒、武蔵野美術大学卒業。広告制作会社勤務後、フリーランスに。
装丁を中心に各種エディトリアルデザイン、グラフィックデザインを生業とする。
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「問い」の生まれる場所
(小冊子・・『大学出版 no.106/2016年』〈一般社団法人 大学出版部協会〉に掲載)
鈴木衛
「装幀」を「学術書の側」からあるいは「学術書の装幀」というくくりで、何か書いて欲しいという依頼を受けて正直戸惑っている。そうか「学術書の装幀」という区分けがあったのか・・・と。私自身は本をジャンルに分けて考えて来なかったし、あるジャンルに特化して接するタイプではない。興味を持ったものは何でも読んできたので読書好きというより、いつも知りたい事、分かりたいことがあって、何にでも手を出す乱読タイプだからだ。だからこのお題に対しては「私、学術書の味方です」と肩を組むようにものを言うことが出来ない。
まず「学術書」という言葉に抵抗がある。「術」が好きではない。「芸術」「医術」「美術」・・「剣術」「忍術」と人を寄せ付けない言葉である。「術を解いて欲しいなぁ」と思っている。良い本は堂々と書店の表の平台にのって欲しいのだ。このように本を平たく見ている人間だから「学術書の装幀というのは~」という語りができないのだ。
だからこの機会は改めて「学術書を読むということ」を一読者として考えることから始めようと思う。そもそも装幀家とはいえその立ち位置は実作者(著者・編集者・版元など)ではなく、かといって受け取る側(読者)でもなく、軸足の定まらない宙づり状態と言ってよい。だから今回は立ち位置を定めず軸足を入れ変えながら学術書にどう触れているのかやどう伝えるのかを考えてみたい。身勝手な棒振りををするかも知れないし、足を踏み外すかも知れないが・・・。
では「学術書」は誰がどのように読んでいるのだろう? シンプルに考えられるのが、研究者。著者に近い立場の人達で、次は学生達。また社会人でもその道の学びが求められている人達。これらの人達は著者の研究成果をそっくり受け止める(られる)人達だろう。いわばWinWin の関係である。先人が組み立てた体型的学問を分析し、咀嚼して腑に落としてゆく。さらには自分の研究や仕事に役立てることが出来る基礎知識の豊富な人で「目的達成型のプロ読み」の人達と言える。「分かる」ことが最低目標で「分かった事」を量的に評価しあえる関係である。
もう一方の裾野には私のような一般の読者がいる。その多くは自分の興味をより深めて人生を少しでも豊かにしたいと学ぶ人達だ。この読者は研究者の「分かった」「分かっている」を前にして行儀良く「分かりました」「ご馳走様」というわけにはいかない。内容の正しい理解には到達できなくても、共振する言葉や考えを見つけたらワクワクしながらそれを楽しむ人達ではないだろうか。こういう読書には明確な目的が設定されていないから満足の限度があやふやだ。参考文献を漁ってるあいだに別の何かを発見して寄り道をしたりする。そして「もっと知りたい」が増えていく。
人は何かが「分かる」と「分からない」も増えていくものだと思う。私は「装幀」のことを一般の人より「分かっている」が一般の人より「分からない・知らない」が増大していてもっと「分かりたい」と思っている状態だ。つまり、「分かる」と「分からない」の両極を持ったモーターと同じと思って良い。これは仕事が面白くなっていったり人間関係が深まっていく過程に似ている。
プロ読みの場合は達成目標には早く到達して「分かった」で止めて、次の「分からない」に移行したいのだが、右記のようなワクワクも少なからず含まれていると思う。
では人が「分からない」ことを楽しむのはどんな状態なのだろう。この辺について、大江健三郎は若者向けの著書の中で、シクロフスキーの言葉を引用している。
《~~芸術の目的は「認知」すなわちそれを認め知ることではなく、「明視(傍点)」することとしてものを感じさせることである。また芸術の手法は、ものを「自動化」の状態から引き出す「異化」の手法であり、知覚を難しく、長引かせる難渋な形式の手法のことである。
これは芸術の手法においては知覚の過程そのものが目的であり、したがってこの過程を長引かせる必要があるためである。》(岩波新書「新しい文学のために」)
ここでは「認知」することではなく「明視」することが重要だとしている。受け入れるように「知る」ことでなく自ら前のめりになって、目をくっきり開いて「視る」ことがリアリティをともなった知覚なのだと言ってるように受け取れる。むずかしいと感じていても「もう引き下がらないぞ」という気持ちになっているのだ。
では、前のめりになって「明視」する時にどんな方法があるのだろうか。ただお目々をばっちりあけて睨めばいいわけじゃないだろう。大江健三郎はG・バシュラールの言葉をを引用して想像力の重要性を仄めかしている。
《今でも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形させる能力であり、それは分けても基本的なイメージからわれわれを開放し、イメージを変える能力なのだ。イメージの変化、イメージの思いがけない結合がなければ、想像力はなく、想像するという行動はない。もし眼前にあるイメージがそこにないイメージを考えさせなければ、もしきっかけとなるイメージが逃れていく夥しいイメージを、イメージの爆発を決定しなければ、想像力はない。知覚があり、ある知覚の追憶、慣れ親しんだ記憶、色彩や形体の記憶がある。想像力に対する語はImage ではなく想像的なものImaginaire である。あるイメージの価値は創造的なものの後光の広がりによって測られる。(中略)人間の心象に於いては想像力はまさに開示の経験であり、新しさの経験に他ならぬ。~》
ここでは想像力とは、知覚したものから既成のイメージを呼び出すものではない。そこから逃れて、自分で新しい体験をつくることだとしているのではないか。流通した想像の産物を受け取るのでなく自分の中で再生産するものだということじゃないかと思う。その素材になるものは想像されたモノが産声を上げた時に背後に生まれた光りのようなものかもしれない。つんのめりそうになりながら、消えて行こうとする光りを追いかける時に、脳の回転速度は最高速になるのじゃないか。自分が共感したり、心を動かされる考えに出会った時には喜んでばかりいないで、危険覚悟でその考えの誕生の秘密を自分のものにしろということだろう。
ここまで考えてみて、やっと自分が仕事の現場でやっていることが言葉になりそうだ。端的に言えば、意味を与えるのでなく、食い付かせることだ。意欲のある読者は簡単にたべられそうなモノには反応しない。簡単には理解できないかもしれないけど、「わかったらうれしいだろうな」と思わせることだ。何しろ読者は認知の回路に横道が沢山あるのが好きだから。
そのためには、まず言葉(書名)を意味が集まった記号のままにしないことだ。読者は書名を頼りに本を手にするのだから何が書かれているのかがすぐ「分かる」ことが最重要だ。しかしそこに「分からない」が含まれていれば、あるいは表さなかったことがまだあるよ。というように見えればより興味は深くなる。そのために書体を選び見せ方を工夫する。どんな書体でどんな大きさ・字間にするのかが大切だ。私は書名を著者の声(遠回りして言えば読者の声)として捉えている。日本人は黙読する時に、視覚野と聴覚野を同時に動かしているという。見ながら聴いてるというわけだ。その声が魅力的でやさしいのか、力強く大きいのか、様々な演出ができる。字間はその声が流ちょうなのか、たどたどしくても誠実な発語なのかを表現できる。それだけでも装幀は成立してしまう。
これは言葉= 意味という自動化を迂回するとても大切な方法と思っている。
さらに意味を別のイメージを並置することで新しい想像力のモーターを回すことだ。
図像と書名はお互いにモンタージュの関係をつくる。図像は言葉を言葉は図像をお互いに異化して新しをい想像力を喚起ことが可能だ。ピカソの「ゲルニカ」を子どもに見せたときに返ってきた言葉は「わからないけど面白い」だった。大抵の大人は「面白い」とは思わない。戦争を表現していることを知っているからだ。ピカソは戦争に新しいイメージを与えて私達に戦争の事ずっと考え続けさせている。彼はこんなことも言っている。「写真は丁度良いときにやって来て、絵画をあらゆる文字や逸話や主題から解放したの
だ」と、絵画が絵解き役から解放された。説明役を脱して絵画そのものに向かえる。としている。「ゲルニカ」は純粋絵画と「戦争」という言葉のモンタージュだと言え、悲惨な戦場写真よりもずっと長く戦争の意味について考え続けさせている。また、「芸術は爆発だ」の一言によって岡本太郎の作品を見るものはずっと芸術の意味を考えている。モンタージュによって「戦争」や「芸術」はその意味を問い直すきっかけになったのだ。
著者は書名が一つの投げ出された「問い」になることを求めているのではないだろうか。読み終わった後も読者の中でずっと生き続けることを望んでいると思う。
本のカバーは意味が視覚的なイメージを借りて「問い」が生まれる場所なのではないか。一人芝居の小さな舞台に例えることができそうだ。そこに登場する書名は、著者が積み重ねた複雑な文脈から選び抜かれ、多くの意味を背負わされて舞台に押し出されている。台詞を丸暗記しただけの初舞台なのだ。自分の中に意味がリアルに生きていない新人役者だ。観客を釘付けにする演技などできるわけがない。初日までに大急ぎで演技指導しなければならないわけだ。そこでは、発声から始めて身振りや衣装の着こなしまで、さらには舞台装置まで考案する。それは私達においてはタイポグラフィであり、色彩構成・図像選びなのだ。こうして新人役者が台詞を自分事として肉体化したとき、やっと観客を舞台に引き込むことが出来る。観客は芝居の筋を憶えなくても良い。ぞくぞくした台詞や場面のイメージを持ち帰ってずっとその意味を考えて欲しいのだ。そういう観客はまた次の舞台を見に来てくれる。自分なりの回答を持って。そしてまた新しい問いを持ち帰るのだ。
学術書というものが、本の世界である定位置を占めているとしたら、そこからずれることが必要じゃないだろうか。自ら異化して、読者と一緒に前のめりになることじゃないかと、一読者として望んでいるし、装幀する立場としては読者を長い思考に導く装幀をしなくてはいけないと改めて思っている。
本を読むということは、数万平方センチに及ぶ深い鍾乳洞のような空間で、そこに散りばめられた僅か3ミリ角の文字を拾い集める孤独な旅のようなものだ。
装幀はその入り口にあって読者を招き入れるのだが、私は、創造物が産まれた時の光りを、本と読者の間から逆照射して照らしたいと思っている。_